昭和52年01月18日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。如何に有り難そうに心行や大祓いを上げても、心に真が無ければ神に嘘を言うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ、小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり節を付けたりせぬでも人にもの言う通りに拝め。」
 とあります。けれども、大きな声を、もう腹の底から大祓いをあげる、柏手でも本当に、神様が聞きなさらにゃあおれない様な、素晴らしい柏手が打てる、そこにはやはり一生懸命というものが出てくるんですね。大きな声をして、一生懸命腹の底から大祓いを上げておりますと、一心が出てくる。かと言うて、そんなら小さい音でも、真さえ有ればわざわざ無理に、大きな音をさせんでも、大きな声で、祈り言葉を唱えなくてもいい、小さい声でも神には聞こえる。
 だから問題は神様に聞こえると言う事、神様に通ずると言う事が、真でなからなければならない、一心でなからなければならないという事なんです。ですから、ならどちらが一心が出るかと言うと、それこそ柏手も大きく良い清らかな大きな音が出るような工夫をさして貰う。大祓いでも、もうそれこそ腹の底から、一生懸命に大きな声を上げて大祓いを上げると一心が立つ、一心が出てくる。言うなら真が出てくる。
 だから此処ではね、教祖様の例えば、神様へ通われるのは、小さい音でも小さい声でも神様に問題は通いさえすれば良いのだ、それはなら私が朝のまあ控えからこおずうっと丁度一時間半の御祈念を致しますけど、決して言葉に出しません。心の中で思うだけです。でなかったら此処の信者の事をずうっといちいち名前ば言いよんならとても一時間半じゃ出来ません。けれども私の心の中でずうっとこう思うて行くだけです。
 なら一時間ここで御祈念させて頂くでもそうです。成るほど言葉には出さないけれども心の中の言葉で、言うならば、合楽教会大発展の御神願御成就に相い成ります様にと、口には出さない小まい声も出さない、只心にそう思うだけの事です。それでも通いよるでしょう。夕べ私は合楽会が終わったのがもう十二時過ぎでしたが、それから久富さんの奉仕を受けて繁雄さんが帰られた後に急に胃が痛みだした。
 それでこういう痛い時には、お風呂か何かに入ってこう温めると良いと思って、お風呂に入ろうかと、私が改めて入ろうかと思ったんです。そしたらあの『願え』と仰せつかった。それで次に『アラン・ドロン』と頂いた。これ何時かも頂いた事が有りますけれどね。ははあ、ほんなこともう本当に抜けた事ですよね。願おうとせんな、はあこげな胃が痛む時にはいつも温めれば良かけんでお風呂に入ろうと思ったら、神様がこちらがそんなに迂闊な事ですよね、願えとしかも願えと頂いたら、次にアラン・ドロン、すぐ印を見せるぞと神様が。
 それから本当に寝ながらでしたけれども、お願いをさせて頂いたら、もうそれこそ私はね、痛いとか痒いとかいう様な事やらはもう絶対神様の自由自在なんですよ。もうこれは本当に自由自在です。けれども願っても願っても聞いて下さらないのは、そこに神様には神様の御都合が有るからです。だからすぐ聞いてやれれる、下さる事ならばもう即座でおかげ下さるんです。もうそれこそあっと言う間にその痛みが止まった。
 私が思わして貰うのにね、だから皆さんがなら痛い痒いじゃ無いさまざまな、なら難儀の様相と言うかねそれは実際は難儀じゃないけれども難儀に私共が感ずるわけです。痛ければ痛いし痒ければ痒いし、まあ腹が立ったりいらいらしたりモヤモヤした、もうそれは一つの難儀の様相ですけれども。そういう事でもです神様の御都合です。ですからその神様の御都合が分かれば尚有り難いけれども、神様の御都合ですからそれを黙って受けて行く以外ないです。
 昨日合楽会で皆さんのお話を聞かせて頂いて、まあ聞いたりお話をさせて頂いたりしたことでしたけれども、皆が合楽に御神縁を頂いて合楽の信心が段々言うならば大きく育っていっておるから、お互いの信心も大きく育って行かなければならんが、大きい事を願うと言うだけではなくて、そこに合楽の信者であるという自覚と使命感にたっての祈りで有り大きな願いでなからなけりゃあならない。
 今朝から『世界清め運動』ということを頂いた。世界を清める運動とね。今なら教団で起こっとる運動は御取次成就信心生活運動と言うことなんです。御取り次ぎ成就信心生活運動と言うことはどう言う事かと言うと、金光大神様の願い、天地の親神様の願いが御取り次ぎの働きによって成就して行くと言うことは、世界の総氏子が幸せに成って行くという運動です。世界中の氏子が幸せになって行くという運動なんです。
 だからなら合楽でいうておる和賀心時代を世界にという風に申しますのは、とりもなおさず神様の願いが成就する様にと言う事であり、御取り次ぎ成就信心生活運動と同じなんです内容は。御取り次ぎ成就信心生活運動というては一寸分かりにくい、どげなこっちゃろかと、なら金光様の信心しとるもんでん分からんで只御取り次ぎ成就信心生活運動と言うとるだけの事。けどそれを具体的になら和賀心時代を世界にしくとか、世界清め運動と言う事になると意味が分かるでしょう。
 ああ世界を清めていく世界中の氏子が和賀心、和らぎ賀ぶ心になったら世界が清まるのだ。世界が清まると言う事は、そういう運動が御取り次ぎ成就信心生活運動なんです。それには金光大神の言うなら教えを基にした信心生活が勿論出来なければならんが、それを煎じつめて言うと、いうなら世界総氏子の清めというか、世界清め運動と言う事は、まず私の心から先に清めて行かなければ成らないと言う事なんです。自分な汚れ果てとってから如何にそれを周辺に拡げていったって拡がる筈はないです。
 私は今なら教団で言われとる御取り次ぎ成就信心生活運動と言う事は大変な偉大な事で有り大きな事なんです。それこそ大きな声で言うなれば世界に呼びかけとる様なもんですけれども、世界中の者がそれに耳を傾けようとしない。それなれば神に嘘を言うも同然の様な内容ではなかろうかと私はまず思うですね。如何に御取り次ぎ成就信心生活運動、口を開けば御取り次ぎ成就信心生活運動だと。
 愛をもって実意丁寧、愛の心を持ってと、如何に鳴り物入りで宣伝したところで呼びかけた所でです、皆が耳をかそうともしないじゃないですか。そりゃあ大きな事を言いながら内容が無いと言う事です。大きな声をそれこそ大祓いばほんな大きな声だけで言いよるけれども真が無いのと同し事。そこでです世界清め運動と言う様な運動はまずは自分自身の心から清める事だと、自分の心を一生懸命清める事に焦点を置かせて頂くと必ず生まれて来るのが体験なんです。
 信心の喜びなんです。今までかって有り難い、こんな有り難いものを感じた事がない、有り難いものが開けて来るんです。ですからこの人も幸せに成られたら、この人も有り難くなられたら、どんなに有り難い事になって来るだろうかというのがです、世界清め運動と言う事になる。ですから本当に、世界総氏子身の上安全世界真の平和と、地球が本当に清まって行く様な、祈りとか願いと言う事を持たせて頂くほどしの、信心に育って行かなければならない。
 為にはまず私が助からなければ成らない、私がまず清まらなければならない、私の心から、光を発つ程しのものに成らなければならない、と言う事になる。そこで私どもがです、言うなら自分の心を清めて行く事の上にもです、なら雨が降るから風が吹くからの事がございますけれども、もうその雨も風も絶対神様の御都合だと言う事なんです。どういう御都合かと言うと、氏子を幸せにせねばおかんという働きなんです。
 例えばなら病気が流行ってもその病気そのものもです、天地の親神様の止むに止まれん、それに依って何か悟らせよう分からせよう、幸せのいうならばおかげを頂いてくれよという働きなんです。雨でも嵐でも、だからそれを私どもが神様の御神意がどこに有るかと言う事を追求し求めさせて頂きながら、そこん所を辛抱して行くうちにお徳も受けられる、もう全ての事が神様の御都合だと思いこめれる信心をまず頂かにゃいけん。それがね自分の心を愈々清めていきよるとそれがそう思えれる。
 あぁ神様の御都合、神様の御都合であると言う事が分かる。そこにはいうならばお礼を言う、お詫びをする、又は願わせて頂くと言う事だけしかない。それを自分の周囲にあたりに構わずにそれを出していったんではおかげにならん。自分自身の心の中でそれを清める材料にして行かなければならん。自分の心を清めると言う事、だから自分の心さえ清めれば良かというのではなくて、世界清めと言う様な大きな願いに立って、私共が清めていかなきゃいけない。
 不思議です大きな願をさして頂くとです、難儀を難儀と感じんです。こういう素晴らしい事を願っておるのであるから、この位な修行はもう当たり前になって来るのです。神様の御都合として、有り難く受けられるです。だからその大きい願いが出来れる、だんだんおかげを頂かにゃいけません。神様の喜びというの、は私はそういう事だと、自分の事では無い人の事までも祈れれる様になる、そういう心が神心だ。だから神様が喜んで下さらぬ筈がない。
 只自分が清めさえすれば良いと。それは何故清めなければならないかというと、その自分の清まったものを人にも見て下さいと人にも伝えさせて頂く事の為に、言うなら清めて行く。自分自身ががおかげを頂かねばならんと言う事は、こういうおかげが頂かれますと人にも伝えていく事の為に、まず自分がおかげを受けなきゃあいけない。それに大きな願いを持たないとです、只自分が助かった自分がおかげを受けただけに終わってしまう。それでは神様所謂世界清め運動という事にはならない、御取り次ぎ成就信心生活運動という事にはならない。
 そういう内容を持って始めて神様に嘘をいうのじゃなくてその真実を神様が受けてくださる。世の中が清まって行かんならんためにはまず私が清まらなきやなりません。いや私一家が清まっていかなければなりません。そしてそれを隣にも広げていこう、又向こうの方にも段々広げて行く為に清めさせて下さいという願い、そこにはです、私どもがほんなら使命感を持たなきゃならない。
 合楽に御神縁を頂いとると言う事は大変な事なんだ。天地の親神様が私にです世界清め運動といった様な大きな事を言うて下さると言う事はね、如何に合楽に大きな期待が掛かっておるかという事なんです。ほんなら合楽の信者信奉者に期待が掛かっておるという事なんです。その期待が掛かっておるという私は自覚に立つ、私が一人助かる事に依ってです千人も万人もの者が助かっていくほどしのおかげになっていかにゃいかん。そういう願いを立て無ければいけない。
 あまりに、只自分が助かりさえすれば良いちゅう事は、只自分の事は一生懸命願う、自分の痛い痒い事だけを願う、自分の一家の繁栄だけを願う。それではそれは神様のお喜び頂ける様な祈りじゃない。信心じゃないという事なんです。成るほどまずは自分が助からなきゃならん。けれども自分が助からなければ人も助ける事も出来ない。自分が光を頂かなければ、周囲に光を放っていく事も出来ない為に、まず自分自身の清まりから、と言うことになるのです。
 今日その事を頂いてから本当に合楽の信奉者の全部の人がですまずは自分が清まらなければならない。そしてその自分の清まったその力をもって働きを持って自分の周辺を清めて行こうという様な、言うなら合楽理念に立って、合楽の信奉者の皆がそういう自覚に立って、合楽理念を分からせて貰い、合楽理念の言うならば行をさせて頂く。そういうおかげが頂けれる様にというあのお願いをさせて頂いとりましたら、沢山の人がこうやって『松葉箒を持っておる』所を頂いた。
 そしてこう掃きよるごたるばってん自分の足元をこうこうやってしよるばってん、すうっと松葉箒きならゴミを寄せて持って行くとでしょう、それを言わば生き生きとしてからその松葉箒を使ってない沢山の人が松葉箒を握っとるけれども、それを引っ張って行こうともしていないと言った様な様子を頂いたんです。言うならばまず自分の足元から清めんならんと言うことは今日皆さん分かって下さったかです。まず本気で清める事にやっぱ自分の心を活動させなきゃいけんです。
 様々な問題を通してその問題を通して、神様のそれは一切が御都合なんだからその御都合である所を分からせて頂くために、その事を通して自分が本気で清まろうという気にならにゃいかん。じぶんの足元が清まったら、またそれをずうっと広く掃き清めていく事になっていけば良いでしょう。只松葉箒を持っとると言う事は、話を聞いて分かったというだけではいけないと言う事であろうと私は思うです。
 まあこれは合楽を含めてですけれども、なら教団で御取り次ぎ成就信心生活運動という事が、言わば大きく叫ばれておる。所がそれは余り効果が上がっていないとするならばです、所謂真のない中身の無い大きな声を上げておっても、真が無かったら神に嘘を言うておるのも同然じゃと言うのであるから、人が助からんのだと言う事になります。そこでなら小さい声ででも良いから真を持ってです、それはどう言う事かと言うとまずは私自身のという小さい所からです私がまず清めなければならない。
 として、それなら自分が本気で清める事になれば生まれてくる体験それが有り難い、その有り難いのが家族中にも広がって行く様な自分の周辺にも広がっていく様な、そして御取り次ぎ成就信心生活運動を所謂具体的に叫ぶならば、いよいよ和賀心時代を造って行かなければならない世界と地球全部を清めて行く程しの大きな祈り願いと言うものを持たせて頂く、そこに私共が使命感を持って、そういう祈り願いと言うものをを持って行くという位に自分の信心が育って行かなきゃいけない。
 自分が育とうとせず自分が清まろうとせずに、如何に世界中の清め運動、清め運動と言うても決して世界が清まって来る様な働きにはなって来ない。もう一つおかげを頂いて大きな祈りが中身のある、だから大きな祈りをさせて頂いておると大きな声でほんなら大祓いなら大祓いを上げておると一心が出てくる。真が出てくる様に大きな祈りを持つという事は、使命感を皆さんが銘々感じれれる所まで信心をお育て頂かなっきゃでけん。そしてこういう大きな事を願っておるのであるから、この位な難儀な問題はもう当然の事として、もう楽に神様の御都合として受けていけれる。
 そこに生まれて来るのが体験、愈々自分の心は清まって行く、その清まるその心を又人にも伝えて行くという行き方、松葉箒を只持っとるだけではでけん。話を聞いているだけではでけん。それをまず自分の足元から掃き清めて、それをいうなら広く清めて行くと言う働き、そう言う事がです、御取り次ぎ成就信心生活運動だと思う。その内容をです、分かり易くいうと世界清め運動であり、和賀心時代を世界に広げて行こうという運動であり、その芯になるものは、まず自分自身の心の清めからと言う事になります。
   どうぞ。